2011年12月19日月曜日

あなたへの社会構成主義


 ケネス・J・ガーゲンによる、社会構成主義についての入門的著作である。

 著者によれば、社会構成主義の四つのテーゼとは、


(1) 私たちが世界や自己を理解するために用いる言葉は、「事実」によって規定されない
(2) 記述や説明、そしてあらゆる表現の形式は、人々の関係から意味を与えられる
(3) 私たちは、何かを記述したり説明したり、あるいは別の方法で表現したりする時、同時に、自分たちの未来をも創造している
(4) 自分たちの理解のあり方について反省することが、明るい未来にとって不可欠である

である。

 モダニズムの根底には、「鏡としての心」というメタファーで示されるような、二元論的世界観あるという。すなわち、私の内側にある主観性と、その外側にある世界の客観性を措定し、私たちの私的な経験が世界をありのままに写しとることができた時、私たちは客観的だとされるのだ。これに対し、社会構成主義の世界観では、共同体による構成が重視される。著者は、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を参照しながら、言葉はある共同体の中で長く用いられることによって、「事実と一致している」という価値を獲得するのであって、その記述がどれほどうまく世界を描写しているかによって記述の正確性が判断されるのではないと言っている。
 社会構成主義は、理論と一体のものとしての実践を重視する。言葉を用いた理論的記述自体が一つの実践であり、新しい未来を生み出すためには、既存の理解の伝統に立ち向かうと同時に、行動の新たな可能性を切り開くような言説や表現(=生成的言説)が必要である。そして、自らを正当化することよりも、「自省(reflexivity)」―自分がもっている前提を疑問視し、「明らかだ」とされているものを疑い、現実を見る別の枠組みを受け入れ、さまざまな立場を考慮してものごとに取り組む姿勢―が重視される。

 「最後に、なぜ私たちは同意を追求しなければならないのでしょうか。どうして、違いを認め、正しく理解するという可能性について、考えようとしないのでしょうか。多様な宗教、政治に対する価値観、文化の概念、生き方などがあってはいけないのでしょうか。たとえ合意に達することができなかったとしても、そして、たとえそれぞれが自らの生き方を優れていると考えていたとしても、「たくさんの花が咲き乱れるがままにしておく」ことによって、世界は豊かなものになるのではないのでしょうか。社会構成主義は、むしろ、このような考え方を支持します。特定の共同体を超えて、普遍的にあてはまるような「唯一の正しい答え」などないのです。それなのにどうして、人々が同意することを望まなければならないのでしょうか。多様性や差異は、実は、人間の存続にとって最も有効な戦略であるとさえいえるかもしれません。」

あなたへの社会構成主義
あなたへの社会構成主義
posted with amazlet at 11.12.19
ケネス・J. ガーゲン
ナカニシヤ出版
売り上げランキング: 11166


2011年10月30日日曜日

ソーシャル・キャピタルと健康

 ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)と健康についての最近の研究動向を概観した著作。
 本書によれば、公衆衛生学におけるソーシャル・キャピタルの概念には2つの考え方がある。パットナムに代表される「コミュニタリアン」的定義では、ソーシャル・キャピタルは、相互利益のための行動や共同作業を促進するネットワーク、規範、信頼といった、社会組織、集団の特性として捉えられる。一方、ブルデューに代表される「ネットワーク」的定義では、ソーシャル・キャピタルは人々のソーシャル・ネットワークの中に埋め込まれたリソース(ソーシャル・サポート、情報チャンネル、社会的信用)であり、個人レベルの特性として捉えられている。
 2008年現在までのソーシャル・キャピタルに関する研究のほとんどはパットナムの理論に基づくものであるが、最近の質的研究のレビューによれば、パットナムのソーシャル・キャピタルの概念では、インフォーマルなネットワーク、家族のサポートなどの地域生活の重要な側面が捉えられていないという。また、これまで無視されてきたソーシャル・キャピタルの負の側面(部外者の排除、グループメンバーへの過度の要求、個人の自由の制限、規範の下方への標準化)にも目を向ける必要があるとのこと。
 その他、ソーシャル・キャピタルの測定について、数式を用いた議論があるも、初学者の私には理解困難・・・。なかなか興味深い概念だと思うのだけどね。

ソーシャル・キャピタルと健康

日本評論社
売り上げランキング: 52979

2011年10月1日土曜日

科学は誰のものか―社会の側から問い直す


 「ガバナンス(governance)」という言葉は、ラテン語で「舵を取る」という意味のguvernareが語源だという。「統治」における舵取りの主体が政府であるのに対し、「ガバナンス」においては、民間企業や、NGO/NPO、ボランティアの個人やグループといった幅広いアクターが、「水平的」かつ「分散的」、「協働的」に社会の舵取りを行っていく。科学技術に関連する問題が社会のなかで増大、複雑化していくと、政府の力だけでは対処しきれなくなり、政府に対する不信が広がってきた。この「信頼の危機」を受け、英国の政府や科学界を中心に起きたのが、科学技術コミュニケーションの考え方やスタイルを、一般市民の科学に対する正しい理解を広めるという「統治」的なものから、双方向的な「対話」や政策決定への「参加」を重視する「ガバナンス」的なものに抜本的に転換することだった。
 科学技術と社会の影響関係は、相互形成的で相互浸透的な「共生成(co-production)」という見方で捉えることができる。ここで「相互形成」というのは、「科学技術が社会に影響し、社会を変える」というだけでなく、逆に「社会が科学技術に影響し、科学技術を変える」ということ、「相互浸透」とは、現代社会がさまざまな科学知識やテクノロジーをその要素として組み込んだ「ハイブリッド」であるように、知識やテクノロジーも、社会的な要素を組み込んだハイブリッドであるような事態を指している。私たちが抱く「価値中立的な科学」という幻想は、科学技術と社会の共生成という現実を覆い隠してしまうが、大切なのは、科学技術に社会のどんな―あるいは誰の―価値観やニーズ、利害が反映されているのかということを問うことだという。
 社会関係資本としての知識には、自然科学や工学、医学・薬学、人文・社会科学など、学術的なものだけでなく、「職業的な専門知」や、日常生活のなかの「生活知」など、多様な種類の知識が含まれる。科学技術に限らず社会問題の解決には、そのような多様な人々の多様な知識や経験、知恵が交わる「知識交流(knowledge exchange)」が不可欠であり、そこでは、当事者ならではの深い経験や知識、洞察(「素人の専門性」)も重要な役割を果たすことになる。
 「科学的な客観性は、唯一の正しい答えを保証してくれる」という期待は、今もとても根強く、このため、しばしば科学は、本来答えるべきではない問いまで「科学的な語り」に囲い込んでしまうことがある。著者は、科学に委ねてよいものとそうでないもの、科学的に考えるべきこととそうでないことをかぎ分ける嗅覚を取り戻すことが、社会のガバナンスの根本的な問題の一つであると述べているが、これは医療にとってもあてはまるだろう。「医療では答えられないもの」を「医療的な語り」に囲い込むこと、学問では解決できない問題を、非主流的学問の確立によって解決しようとするアプローチには、慎重でなければならないと思う。


科学は誰のものか―社会の側から問い直す (生活人新書 328)
平川 秀幸
日本放送出版協会
売り上げランキング: 57324

2011年9月18日日曜日

コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来

 著者によれば、戦後の日本社会において農村から都市に移った日本人は、都市的な関係性を築いていくかわりに、「カイシャ」や「(核)家族」という、いわば「都市の中のムラ社会」ともいうべき、閉鎖性の強いコミュニティを作っていった。経済成長の時代には、カイシャや家族の利益を追求することが(パイの拡大を通じて)一定の好循環を生み出していたが、経済が成熟化し、カイシャや家族が流動化する現在においては、それはかえって個人の孤立を招いており、「個人が独立しつつつながる」という、真の意味での「都市的な関係性」を作っていく、「関係性の組み換え」が、現在の日本社会における根本的な課題であるという。
 ここでいう、「農村型コミュニティ」とは、「共同体に一体化する(ないし吸収される)個人」ともいうべき関係のあり方を指し、それぞれの個人が、ある種の情緒的(ないし非言語的な)つながりの感覚をベースに、一定の「同質性」ということを前提として、凝集度の強い形で結びつくような関係性をいう。これに対し「都市型コミュニティ」とは、「独立した個人と個人のつながり」ともいうべき関係のあり方を指し、個人の独立性が強く、またそのつながりのあり方は共通の規範やルールに基づくもので、言語による部分の比重が大きく、個人間の一定の異質性を前提とするものである。
 コミュニティ内外の関係性についていえば、個人ないし個体がダイレクトに集団全体(あるいは社会)につながるのではなく、その間にもう一つ中間的な集団が存在するという構造(「重層社会」)はヒトにおいて初めて成立するが、「重層社会における中間的な集団」こそが「コミュニティ」の本質的な意味であり、コミュニティはその原初から、「内部」的な関係性と、「外部」との関係性の両者を持っている。
 農業文明がある種の成熟化、定常化の時代を迎えつつあった紀元前五世紀前後(「精神革命」(伊東俊太郎)あるいは「枢軸の時代」(ヤスパース))には、ギリシャ哲学、儒教など諸子百家、仏教、旧約思想などの「普遍的な原理」を志向する思想や哲学が、地球上のいくつかの地域で「同時多発的」に生じているが、これらの普遍的思想は、異質なコミュニティが出会うところで、それらを第三者的な地点に立って「つないで」いく原理として生まれたものだった。現在、私たちは、人間の歴史の中で三度目の「定常化」の時代―19世紀後半の産業革命以降の、約200年強の急速な産業化及びそれに伴う人間の経済活動や生産・消費の飛躍的な拡大とその飽和・成熟化―を迎えつつあるが、それはちょうど紀元前五世紀前後に、普遍的な原理を志向する思想が地球上で「同時多発的」に生成した時代とある意味で同型の時代状況 ―拡大・成長から成熟化・定常化への移行という点において― であり、再びそうした何らかの新たな根本的な思想の生成が待たれている時代であると。


コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)

2011年8月31日水曜日

「患者中心の医療」という言説―患者の「知」の社会学


 今日、「患者中心の医療」というコンセプトが大きな潮流となっているが、著者によれば、それらは「患者中心」のための議論としてスタートしながら、少なからず専門家主導で検討が進められてきた側面があるという。医師の「専門性」が拡張され、医師―患者関係とそこで行われる価値判断を主導していく「患者中心の医療」が医療者サイドで構築されつつある。そこに欠落しているのは「患者のなすべきこと」は何かという視点であり、価値判断者としての患者の存在の希薄化が問題となる。「患者中心の医療」の枠組みを医療者が「お膳立て」し、その成果物を患者が享受するものとして思い描かれる医療者の「患者中心の医療」に対し、周囲の人的資源の中心に自分を置き、「病ある生活」を自分自身でプロデュースしていく患者側の「患者中心の医療」が構想される。患者としての自らの意思は、「読み取られるもの」ではなく「表明するもの」であると。
 患者主導の「患者中心の医療」の取り組みの一つとして、英国保健省とNHS(National Health Service)が主導するExpert Patients Programme(EPP)がある。EPPは、慢性的な症状を持つ人々が、その症状に上手く対処しながら、社会生活を送っていくためのスキルを獲得するために作られたトレーニング・プログラムであり、患者を「専門能力」を持つ者(expert)として規定している点が特徴である。患者の持つ「素人の専門性(lay expertise)」は、「日常生活運営」における自律性、 肉体をもってその病の現実を知覚しうるただ一人の存在である、という「存在の希少性」 を基盤とする。
 著者の提出するもう一つの重要な問いは、「ドミナントイデオロギー」の問題である。すなわち、「一つの理論体系が、表向き別種とされている理論体系を少なからず規定している」という問題、本来、「医学の専門性」とは別種のものとして注目を集めてきた「素人の専門性」を、医学的に評価して、「有用である」「有用でない」と価値づけられていないか、専門性は、変容しているように見受けられる反面、じつはドミナントな理念体系に囲い込まれているのではないか、という問いである。今日の医療におけるドミナントイデオロギーは生物医学であり、生活者側も、濃密に医学的価値判断に思考様式を規定されている。また、EPPにおいても、理念レベルでは「素人の専門知識」という新たな可能性の提示とその活用を主唱している一方で、プログラムの成り立ちは必ずしもこの理念を具現化するものとは言えず、素人専門家の制度化のための実践面では、「再現性と客観性を担保された知識を伝達する」という、未だ伝統的な専門家観が基盤にある。
 「患者中心の医療」の本質は、医療の内部の技術的な問題ではないのだろう。むしろそれは、医師であれ、患者であれ、特権的な中心を認めない、対話を基盤にした医療なのではないか。「患者中心の医療」はゴールではなくてスタートである。その先に何があるのかは、あなた次第だ。


「患者中心の医療」という言説―患者の「知」の社会学
松繁 卓哉
立教大学出版会
売り上げランキング: 215819


2011年8月19日金曜日

「聴く」ことの力―臨床哲学試論

   「臨床」ということで、著者は「哲学の場所」ということを考えている。「聴く」という行為が、哲学のいとなみとしてなされるためには、ひとびとが話すその同じ場所に哲学が場所をもちうるのでなければならない。内部的な場所への退却あるいは撤退を許さず、主体が他者とおなじ現在において他者とともに居合わせていて、その関係から一時的にも離脱することなく、そこで思考しつづけることを要求されるような場所、「共同の現在」という時間性格をもった関係の場こそ、哲学にとっての「臨床」の場であると。
 著者が提唱する「臨床哲学」は、哲学する者として臨床の場面にのぞむ者の経験の変容を引き起こす、ひとつの出来事としての哲学である。まず第一に、「臨床哲学」は論じること、書くこととしての哲学ではなく、「聴く」といういとなみとしての哲学を模索する。「聴く」ことを哲学するのではなくて、「聴く」ことがそのまま哲学の実践となるような哲学である。第二に、「臨床哲学」はだれかある特定の他者に向かってという単独性ないしは特異性(シンギュラリティ)の感覚を重視する。第三に、あらかじめ所有された原則の適用ではなくて、むしろそういう一般的原則が一個の事例によって揺さぶられる経験として哲学の経験をとらえる。
 「臨床」とは、ひとが特定のだれかとして他のだれかに遇う場面であり、ある他者の前に身を置くことによって、そのホスピタブルな関係のなかでじぶん自身もまた変えられるような経験の場面である。ケアといういとなみは、ある効果を求めてなされるのではなく、「なんのために?」という問いが失効するところでなされる。それは、職務(=役割)においてではなく、職務を超えてだれかあるひとりの人間として現れることなしには職務そのものが遂行できないという矛盾を抱え込んだいとなみである。だから、自他を俯瞰するような第三の視点が導入され、ケアや対人支援が技術となる時、大切な何かが失われるのだと思う。この点において、ケアは「聴く」ことよりも「傍らにいつづける」ことに接近する。
 「臨床」においては、じぶんが他者を選ぶのではなく、他者とそこで遇うのだということ、この偶然性のなかで生成する社会性というものを、「臨床哲学」は視野の中心に置くという。偶然性と出会いのなかに、ホスピタリティは生まれるのだ。
 「方法的な直線の道は、鉄道やハイウェイのように平原を掘り起し、山や谷を突き抜けて最短距離で進む。そのあとをこんどは機関車が、自動車が、騒音や排気をまき散らしてゆく。これに対してランドネ(遊歩道)の道は、風景と折りあいをつけながら、ときに風景のその襞のなかに紛れ込んだり、社を迂回したり、別の道に通じたりして、うねうね進んでゆく。この「長く、曲がりくねった、ぎざぎざした、雑多な」ランドネの道で、ひとは寡黙なものにふれる。思いがけないものと遇う。用がないものにも目を向ける。じぶんが方法の道の上にいればぜったいにふれられないものに、ふれるのである。ホスピタリティの道は、おそらく適当に休みながら、できればいっしょに休みながら、道草もして、うねうね進むしかないのだろう。が、その過程こそが大事なのだろうとおもう。この過程をともにすること、なんの目的もなくいっしょにぶらぶら歩くこと、このぶらぶら歩きがもつ意味を、その途すがら考えつめること、そこに臨床哲学の道があるように思う。」

「聴く」ことの力―臨床哲学試論
鷲田 清一
阪急コミュニケーションズ
売り上げランキング: 44889

2011年8月11日木曜日

病院の世紀の理論

 病院の世紀としての20世紀は、治療医学に対する大きな社会的期待を背景に、医療供給システムが効果的な治療システムであることを要請されるようになった時代だと言う。そして、それを支える必須の機能的構造が、セカンダリケアとプライマリケアの機能的分業であった。「病院」と呼ばれる社会制度が、セカンダリケアという機能領域を担当するようになることで、病院/診療所という制度構造が、セカンダリケア/プライマリケアという機能構造に対応するようになった。 
 著者によれば、先進諸国における医療供給システムは、20世紀初頭までに日米英3カ国のシステムに代表される3つの型のいずれかに収斂した。これら3つの型は、医師の身分構造と、病床を医師自身が所有するかどうか、という2つのパラメータで分岐する。イギリスを代表とする身分原理型システムにおいては、専門医と一般医という明確な区別が存在し、一般医がプライマリケア、専門医がセカンダリケアを提供するという形で、両者は明確に棲み分けてきた。これに対し、アメリカや日本では、原則的に全ての医師が専門医として養成され、プライマリケアとセカンダリケアの全体を、専門医一本でカバーしている。また、アメリカを代表とする開放原理型システムでは、医師は医師以外の主体によって供給された病院を利用するのに対し、日本を代表とする所有原理型システムでは、病床供給は、開業医である医師自身が自前で病床を開設することによってなされてきた。
 20世紀の医療システムが治療の都合によって作り上げられていたとすると、疾病構造が生活習慣病を中心とするものとなり、人口が高齢化するにつれ、治療という手段の社会的評価が相対的に低下していけば、病院の世紀は終焉を迎えることになる。治療を中心としてきた従来の医療システムが、人びとの健康の特権的な庇護者の位置から、生活の質(QOL)を支える手段の1つを提供するサブシステムの1つへと移行する一方で、予防・治療・生活支援を統合的に行うことで、新しい意味における健康を達成しようとする社会システム=包括ケアシステムが形成される。
 病院がもっぱら急性期患者に対応する傾向を強めていけば、高齢者・障害者・慢性期患者といった医療ニーズをある程度抱えながらも、濃厚な治療サービスを必要としない人びとは、急性期病院の外側に押し出されていくことになる。急性期病院と在宅ケアとの間の領域には、老健、特老などの介護施設の他に、有床診療所や先端性の低い小病院も含まれるだろう。包括ケアシステムにおいては、従来の医療領域に生活の論理が流れ込んでくる一方で、医療が日常生活の一部として遍在化する。小病院/有床診療所の入退院を繰り返す在宅高齢者や施設入所者に象徴されるように、(少なくとも日本においては)地域における純粋なプライマリケアと、急性期病院におけるセカンダリケアとの間に「1.5次のケア」とでも言うべき領域が存在する。そしてこの領域を担う医師は、(包括ケアシステムにおける支援の主役は医師ではないという議論はここでは措くとしても)基本的にはプライマリケアを担う医師として養成されるべきだと思う。
 もう1つの論点は、病院の世紀の終焉に伴って、専門性の概念が変容を遂げ、医師の脱専門職化(de-professionalization)が進むということである。包括ケアシステムにおける中心的概念である「生活の質(QOL)」の向上に関する重要な情報は、本人およびその身近な環境に集中している。QOLが究極的には不可知であり、客観的に測定不可能であるということが、医師の専門性にも重大な影響を及ぼすことになる。専門性という概念自体が、20世紀的な病院の世紀の歴史的産物であるかもしれないのだ。この点は、「家庭医の専門性」を巡る議論においても決定的に重要である。「何か特別なことができる」ということではなく、「何でもないがそこにいる」ということが、本質的かつ積極的な意味を持つのだと思う。

病院の世紀の理論
病院の世紀の理論
posted with amazlet at 11.08.11
猪飼 周平
有斐閣
売り上げランキング: 63769


2011年8月2日火曜日

イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」

 著者は、バリューのある仕事、生産性とは何かを問う中で、「イシュー度」と「解の質」の2つの軸を設定している。「イシュー度」とは「自分のおかれた局面でこの問題に答えを出す必要性の高さ」であり、「解の質」とは「そのイシューに対してどこまで明確に答えを出せているかの度合い」である。絶対にやってはならないのが、労働量によって解の質を上げ、バリューを上げようとするアプローチ(「犬の道」)であり、バリューのある仕事をするためには、まず、徹底してビジネス・研究活動の対象を意味のあること、イシュー度の高い問題に絞り、そののちに解の質を上げていくべきだという。
 「一人の科学者の一生の研究時間なんてごく限られている。研究テーマなんてごまんとある。ちょっと面白いなという程度でテーマを選んでいたら、本当に大切なことをやるひまがないうちに一生が終わってしまうんですよ。」-利根川進
 しかし、生産性とは何かという問いを突き詰めると、パースペクティブの問題に行きつくように思う。誰にとっての価値なのか、「Issue for whom?」という問いも同時に考えなければならないだろう。
(2011年7月18日)
イシューからはじめよ―知的生産の「シンプルな本質」
安宅和人
英治出版
売り上げランキング: 614

キュレーションの時代

 本書が描くのは、マスの時代から「個別的かつ開放的」な「つながり」の時代への一連の変化である。暗黙的な相互理解を形成してきたマスメディアが衰退し、替わって無数の細分化された情報圏域(=ビオトープ)が形成される。情報爆発が進む中で、一次情報を発信することよりも、その情報が持つ意味を読み解き、コンテキストを付与(=キュレーション)できる存在の方が重要性を増してきている。
 医療におけるキュレーターの最たるものが、家庭医だろう。持続的な関係性、信頼関係の中で、個別性の高いケアを提供する。そこで重要なのは、家庭医自身が個別的であること、自分自身の言葉で語ることだと思う。
(2011年6月25日)
キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)
佐々木 俊尚
筑摩書房
売り上げランキング: 1989

ブログ開設

一家庭医の五十嵐博が、医療、社会、哲学、その他について、日々学んだこと、考えたことをつづるブログです。
タイトルの「旅の道連れ」は、2010年8月に福島県立医科大学 地域・家庭医療学講座の研究カンファレンスで行われた私のプレゼンテーション、「医療社会学と旅の道連れモデル」に由来します。
サブタイトルの「臨床哲学」は、臨床医が、臨床の現場で、臨床を哲学するということ、私の「いまここ」が探究の対象になるというということであり、また、哲学が人と人との間に生まれるということです。
それでは、出発です。