2011年9月18日日曜日

コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来

 著者によれば、戦後の日本社会において農村から都市に移った日本人は、都市的な関係性を築いていくかわりに、「カイシャ」や「(核)家族」という、いわば「都市の中のムラ社会」ともいうべき、閉鎖性の強いコミュニティを作っていった。経済成長の時代には、カイシャや家族の利益を追求することが(パイの拡大を通じて)一定の好循環を生み出していたが、経済が成熟化し、カイシャや家族が流動化する現在においては、それはかえって個人の孤立を招いており、「個人が独立しつつつながる」という、真の意味での「都市的な関係性」を作っていく、「関係性の組み換え」が、現在の日本社会における根本的な課題であるという。
 ここでいう、「農村型コミュニティ」とは、「共同体に一体化する(ないし吸収される)個人」ともいうべき関係のあり方を指し、それぞれの個人が、ある種の情緒的(ないし非言語的な)つながりの感覚をベースに、一定の「同質性」ということを前提として、凝集度の強い形で結びつくような関係性をいう。これに対し「都市型コミュニティ」とは、「独立した個人と個人のつながり」ともいうべき関係のあり方を指し、個人の独立性が強く、またそのつながりのあり方は共通の規範やルールに基づくもので、言語による部分の比重が大きく、個人間の一定の異質性を前提とするものである。
 コミュニティ内外の関係性についていえば、個人ないし個体がダイレクトに集団全体(あるいは社会)につながるのではなく、その間にもう一つ中間的な集団が存在するという構造(「重層社会」)はヒトにおいて初めて成立するが、「重層社会における中間的な集団」こそが「コミュニティ」の本質的な意味であり、コミュニティはその原初から、「内部」的な関係性と、「外部」との関係性の両者を持っている。
 農業文明がある種の成熟化、定常化の時代を迎えつつあった紀元前五世紀前後(「精神革命」(伊東俊太郎)あるいは「枢軸の時代」(ヤスパース))には、ギリシャ哲学、儒教など諸子百家、仏教、旧約思想などの「普遍的な原理」を志向する思想や哲学が、地球上のいくつかの地域で「同時多発的」に生じているが、これらの普遍的思想は、異質なコミュニティが出会うところで、それらを第三者的な地点に立って「つないで」いく原理として生まれたものだった。現在、私たちは、人間の歴史の中で三度目の「定常化」の時代―19世紀後半の産業革命以降の、約200年強の急速な産業化及びそれに伴う人間の経済活動や生産・消費の飛躍的な拡大とその飽和・成熟化―を迎えつつあるが、それはちょうど紀元前五世紀前後に、普遍的な原理を志向する思想が地球上で「同時多発的」に生成した時代とある意味で同型の時代状況 ―拡大・成長から成熟化・定常化への移行という点において― であり、再びそうした何らかの新たな根本的な思想の生成が待たれている時代であると。


コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)

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