2012年3月18日日曜日

新たな旅立ち


 4月から新しい職場に異動する。福島での4年間で多くのことを学んだ。三春の患者さんと与えられた責任が、私を育ててくれた。米国留学時代、「家庭医療の指導医になるにはどうすればよいか」との私の問いに、ミシガン州立大学家庭医療科主任教授のDr. William Wadlandは、「まずレジデンシーで研修しなさい。それから10年間開業しなさい (practice for ten years)」と言った。管理者ではないが、4月から開業医療の一端に携わる。旅立つ道の先に何があるのか、自分の目で確かめてみることにする。


2012年1月29日日曜日

ナラティブ・メディスン―物語能力が医療を変える


 著者によれば、ナラティブ・メディスン(物語医療学)は、ナラティブ・コンピテンス(物語能力)を通じて実践される医療と定義される。病いの物語を認識し、それを読み取り、解釈し、それに心動かされるという、ナラティブ・スキル(物語技能)を用いて実践される医療である。そして、物語能力は、精密読解、パラレル・チャートなどの方法を通して磨くことができるという。
 本書の核心は、医療における関係性、臨床実践を、語り手と聴き手(あるいは著者と読者)の関係として捉えるところにあると思う。それは、語り手と聴き手の間の相互作用的で協働的なプロセス、共同生成する対話のプロセスである。物語能力を磨くことで、患者の病いの物語を満たす容器(flask)となり、自分自身を治療手段として用いることができるようになるという。
 臨床家として、学ぶところが多いと思う。


ナラティブ・メディスン―物語能力が医療を変える
Rita Charon
医学書院
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2011年12月19日月曜日

あなたへの社会構成主義


 ケネス・J・ガーゲンによる、社会構成主義についての入門的著作である。

 著者によれば、社会構成主義の四つのテーゼとは、


(1) 私たちが世界や自己を理解するために用いる言葉は、「事実」によって規定されない
(2) 記述や説明、そしてあらゆる表現の形式は、人々の関係から意味を与えられる
(3) 私たちは、何かを記述したり説明したり、あるいは別の方法で表現したりする時、同時に、自分たちの未来をも創造している
(4) 自分たちの理解のあり方について反省することが、明るい未来にとって不可欠である

である。

 モダニズムの根底には、「鏡としての心」というメタファーで示されるような、二元論的世界観あるという。すなわち、私の内側にある主観性と、その外側にある世界の客観性を措定し、私たちの私的な経験が世界をありのままに写しとることができた時、私たちは客観的だとされるのだ。これに対し、社会構成主義の世界観では、共同体による構成が重視される。著者は、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論を参照しながら、言葉はある共同体の中で長く用いられることによって、「事実と一致している」という価値を獲得するのであって、その記述がどれほどうまく世界を描写しているかによって記述の正確性が判断されるのではないと言っている。
 社会構成主義は、理論と一体のものとしての実践を重視する。言葉を用いた理論的記述自体が一つの実践であり、新しい未来を生み出すためには、既存の理解の伝統に立ち向かうと同時に、行動の新たな可能性を切り開くような言説や表現(=生成的言説)が必要である。そして、自らを正当化することよりも、「自省(reflexivity)」―自分がもっている前提を疑問視し、「明らかだ」とされているものを疑い、現実を見る別の枠組みを受け入れ、さまざまな立場を考慮してものごとに取り組む姿勢―が重視される。

 「最後に、なぜ私たちは同意を追求しなければならないのでしょうか。どうして、違いを認め、正しく理解するという可能性について、考えようとしないのでしょうか。多様な宗教、政治に対する価値観、文化の概念、生き方などがあってはいけないのでしょうか。たとえ合意に達することができなかったとしても、そして、たとえそれぞれが自らの生き方を優れていると考えていたとしても、「たくさんの花が咲き乱れるがままにしておく」ことによって、世界は豊かなものになるのではないのでしょうか。社会構成主義は、むしろ、このような考え方を支持します。特定の共同体を超えて、普遍的にあてはまるような「唯一の正しい答え」などないのです。それなのにどうして、人々が同意することを望まなければならないのでしょうか。多様性や差異は、実は、人間の存続にとって最も有効な戦略であるとさえいえるかもしれません。」

あなたへの社会構成主義
あなたへの社会構成主義
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ケネス・J. ガーゲン
ナカニシヤ出版
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2011年10月30日日曜日

ソーシャル・キャピタルと健康

 ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)と健康についての最近の研究動向を概観した著作。
 本書によれば、公衆衛生学におけるソーシャル・キャピタルの概念には2つの考え方がある。パットナムに代表される「コミュニタリアン」的定義では、ソーシャル・キャピタルは、相互利益のための行動や共同作業を促進するネットワーク、規範、信頼といった、社会組織、集団の特性として捉えられる。一方、ブルデューに代表される「ネットワーク」的定義では、ソーシャル・キャピタルは人々のソーシャル・ネットワークの中に埋め込まれたリソース(ソーシャル・サポート、情報チャンネル、社会的信用)であり、個人レベルの特性として捉えられている。
 2008年現在までのソーシャル・キャピタルに関する研究のほとんどはパットナムの理論に基づくものであるが、最近の質的研究のレビューによれば、パットナムのソーシャル・キャピタルの概念では、インフォーマルなネットワーク、家族のサポートなどの地域生活の重要な側面が捉えられていないという。また、これまで無視されてきたソーシャル・キャピタルの負の側面(部外者の排除、グループメンバーへの過度の要求、個人の自由の制限、規範の下方への標準化)にも目を向ける必要があるとのこと。
 その他、ソーシャル・キャピタルの測定について、数式を用いた議論があるも、初学者の私には理解困難・・・。なかなか興味深い概念だと思うのだけどね。

ソーシャル・キャピタルと健康

日本評論社
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2011年10月1日土曜日

科学は誰のものか―社会の側から問い直す


 「ガバナンス(governance)」という言葉は、ラテン語で「舵を取る」という意味のguvernareが語源だという。「統治」における舵取りの主体が政府であるのに対し、「ガバナンス」においては、民間企業や、NGO/NPO、ボランティアの個人やグループといった幅広いアクターが、「水平的」かつ「分散的」、「協働的」に社会の舵取りを行っていく。科学技術に関連する問題が社会のなかで増大、複雑化していくと、政府の力だけでは対処しきれなくなり、政府に対する不信が広がってきた。この「信頼の危機」を受け、英国の政府や科学界を中心に起きたのが、科学技術コミュニケーションの考え方やスタイルを、一般市民の科学に対する正しい理解を広めるという「統治」的なものから、双方向的な「対話」や政策決定への「参加」を重視する「ガバナンス」的なものに抜本的に転換することだった。
 科学技術と社会の影響関係は、相互形成的で相互浸透的な「共生成(co-production)」という見方で捉えることができる。ここで「相互形成」というのは、「科学技術が社会に影響し、社会を変える」というだけでなく、逆に「社会が科学技術に影響し、科学技術を変える」ということ、「相互浸透」とは、現代社会がさまざまな科学知識やテクノロジーをその要素として組み込んだ「ハイブリッド」であるように、知識やテクノロジーも、社会的な要素を組み込んだハイブリッドであるような事態を指している。私たちが抱く「価値中立的な科学」という幻想は、科学技術と社会の共生成という現実を覆い隠してしまうが、大切なのは、科学技術に社会のどんな―あるいは誰の―価値観やニーズ、利害が反映されているのかということを問うことだという。
 社会関係資本としての知識には、自然科学や工学、医学・薬学、人文・社会科学など、学術的なものだけでなく、「職業的な専門知」や、日常生活のなかの「生活知」など、多様な種類の知識が含まれる。科学技術に限らず社会問題の解決には、そのような多様な人々の多様な知識や経験、知恵が交わる「知識交流(knowledge exchange)」が不可欠であり、そこでは、当事者ならではの深い経験や知識、洞察(「素人の専門性」)も重要な役割を果たすことになる。
 「科学的な客観性は、唯一の正しい答えを保証してくれる」という期待は、今もとても根強く、このため、しばしば科学は、本来答えるべきではない問いまで「科学的な語り」に囲い込んでしまうことがある。著者は、科学に委ねてよいものとそうでないもの、科学的に考えるべきこととそうでないことをかぎ分ける嗅覚を取り戻すことが、社会のガバナンスの根本的な問題の一つであると述べているが、これは医療にとってもあてはまるだろう。「医療では答えられないもの」を「医療的な語り」に囲い込むこと、学問では解決できない問題を、非主流的学問の確立によって解決しようとするアプローチには、慎重でなければならないと思う。


科学は誰のものか―社会の側から問い直す (生活人新書 328)
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2011年9月18日日曜日

コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来

 著者によれば、戦後の日本社会において農村から都市に移った日本人は、都市的な関係性を築いていくかわりに、「カイシャ」や「(核)家族」という、いわば「都市の中のムラ社会」ともいうべき、閉鎖性の強いコミュニティを作っていった。経済成長の時代には、カイシャや家族の利益を追求することが(パイの拡大を通じて)一定の好循環を生み出していたが、経済が成熟化し、カイシャや家族が流動化する現在においては、それはかえって個人の孤立を招いており、「個人が独立しつつつながる」という、真の意味での「都市的な関係性」を作っていく、「関係性の組み換え」が、現在の日本社会における根本的な課題であるという。
 ここでいう、「農村型コミュニティ」とは、「共同体に一体化する(ないし吸収される)個人」ともいうべき関係のあり方を指し、それぞれの個人が、ある種の情緒的(ないし非言語的な)つながりの感覚をベースに、一定の「同質性」ということを前提として、凝集度の強い形で結びつくような関係性をいう。これに対し「都市型コミュニティ」とは、「独立した個人と個人のつながり」ともいうべき関係のあり方を指し、個人の独立性が強く、またそのつながりのあり方は共通の規範やルールに基づくもので、言語による部分の比重が大きく、個人間の一定の異質性を前提とするものである。
 コミュニティ内外の関係性についていえば、個人ないし個体がダイレクトに集団全体(あるいは社会)につながるのではなく、その間にもう一つ中間的な集団が存在するという構造(「重層社会」)はヒトにおいて初めて成立するが、「重層社会における中間的な集団」こそが「コミュニティ」の本質的な意味であり、コミュニティはその原初から、「内部」的な関係性と、「外部」との関係性の両者を持っている。
 農業文明がある種の成熟化、定常化の時代を迎えつつあった紀元前五世紀前後(「精神革命」(伊東俊太郎)あるいは「枢軸の時代」(ヤスパース))には、ギリシャ哲学、儒教など諸子百家、仏教、旧約思想などの「普遍的な原理」を志向する思想や哲学が、地球上のいくつかの地域で「同時多発的」に生じているが、これらの普遍的思想は、異質なコミュニティが出会うところで、それらを第三者的な地点に立って「つないで」いく原理として生まれたものだった。現在、私たちは、人間の歴史の中で三度目の「定常化」の時代―19世紀後半の産業革命以降の、約200年強の急速な産業化及びそれに伴う人間の経済活動や生産・消費の飛躍的な拡大とその飽和・成熟化―を迎えつつあるが、それはちょうど紀元前五世紀前後に、普遍的な原理を志向する思想が地球上で「同時多発的」に生成した時代とある意味で同型の時代状況 ―拡大・成長から成熟化・定常化への移行という点において― であり、再びそうした何らかの新たな根本的な思想の生成が待たれている時代であると。


コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)