病院の世紀としての20世紀は、治療医学に対する大きな社会的期待を背景に、医療供給システムが効果的な治療システムであることを要請されるようになった時代だと言う。そして、それを支える必須の機能的構造が、セカンダリケアとプライマリケアの機能的分業であった。「病院」と呼ばれる社会制度が、セカンダリケアという機能領域を担当するようになることで、病院/診療所という制度構造が、セカンダリケア/プライマリケアという機能構造に対応するようになった。
著者によれば、先進諸国における医療供給システムは、20世紀初頭までに日米英3カ国のシステムに代表される3つの型のいずれかに収斂した。これら3つの型は、医師の身分構造と、病床を医師自身が所有するかどうか、という2つのパラメータで分岐する。イギリスを代表とする身分原理型システムにおいては、専門医と一般医という明確な区別が存在し、一般医がプライマリケア、専門医がセカンダリケアを提供するという形で、両者は明確に棲み分けてきた。これに対し、アメリカや日本では、原則的に全ての医師が専門医として養成され、プライマリケアとセカンダリケアの全体を、専門医一本でカバーしている。また、アメリカを代表とする開放原理型システムでは、医師は医師以外の主体によって供給された病院を利用するのに対し、日本を代表とする所有原理型システムでは、病床供給は、開業医である医師自身が自前で病床を開設することによってなされてきた。
20世紀の医療システムが治療の都合によって作り上げられていたとすると、疾病構造が生活習慣病を中心とするものとなり、人口が高齢化するにつれ、治療という手段の社会的評価が相対的に低下していけば、病院の世紀は終焉を迎えることになる。治療を中心としてきた従来の医療システムが、人びとの健康の特権的な庇護者の位置から、生活の質(QOL)を支える手段の1つを提供するサブシステムの1つへと移行する一方で、予防・治療・生活支援を統合的に行うことで、新しい意味における健康を達成しようとする社会システム=包括ケアシステムが形成される。
病院がもっぱら急性期患者に対応する傾向を強めていけば、高齢者・障害者・慢性期患者といった医療ニーズをある程度抱えながらも、濃厚な治療サービスを必要としない人びとは、急性期病院の外側に押し出されていくことになる。急性期病院と在宅ケアとの間の領域には、老健、特老などの介護施設の他に、有床診療所や先端性の低い小病院も含まれるだろう。包括ケアシステムにおいては、従来の医療領域に生活の論理が流れ込んでくる一方で、医療が日常生活の一部として遍在化する。小病院/有床診療所の入退院を繰り返す在宅高齢者や施設入所者に象徴されるように、(少なくとも日本においては)地域における純粋なプライマリケアと、急性期病院におけるセカンダリケアとの間に「1.5次のケア」とでも言うべき領域が存在する。そしてこの領域を担う医師は、(包括ケアシステムにおける支援の主役は医師ではないという議論はここでは措くとしても)基本的にはプライマリケアを担う医師として養成されるべきだと思う。
もう1つの論点は、病院の世紀の終焉に伴って、専門性の概念が変容を遂げ、医師の脱専門職化(de-professionalization)が進むということである。包括ケアシステムにおける中心的概念である「生活の質(QOL)」の向上に関する重要な情報は、本人およびその身近な環境に集中している。QOLが究極的には不可知であり、客観的に測定不可能であるということが、医師の専門性にも重大な影響を及ぼすことになる。専門性という概念自体が、20世紀的な病院の世紀の歴史的産物であるかもしれないのだ。この点は、「家庭医の専門性」を巡る議論においても決定的に重要である。「何か特別なことができる」ということではなく、「何でもないがそこにいる」ということが、本質的かつ積極的な意味を持つのだと思う。
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