「臨床」ということで、著者は「哲学の場所」ということを考えている。「聴く」という行為が、哲学のいとなみとしてなされるためには、ひとびとが話すその同じ場所に哲学が場所をもちうるのでなければならない。内部的な場所への退却あるいは撤退を許さず、主体が他者とおなじ現在において他者とともに居合わせていて、その関係から一時的にも離脱することなく、そこで思考しつづけることを要求されるような場所、「共同の現在」という時間性格をもった関係の場こそ、哲学にとっての「臨床」の場であると。
著者が提唱する「臨床哲学」は、哲学する者として臨床の場面にのぞむ者の経験の変容を引き起こす、ひとつの出来事としての哲学である。まず第一に、「臨床哲学」は論じること、書くこととしての哲学ではなく、「聴く」といういとなみとしての哲学を模索する。「聴く」ことを哲学するのではなくて、「聴く」ことがそのまま哲学の実践となるような哲学である。第二に、「臨床哲学」はだれかある特定の他者に向かってという単独性ないしは特異性(シンギュラリティ)の感覚を重視する。第三に、あらかじめ所有された原則の適用ではなくて、むしろそういう一般的原則が一個の事例によって揺さぶられる経験として哲学の経験をとらえる。
「臨床」とは、ひとが特定のだれかとして他のだれかに遇う場面であり、ある他者の前に身を置くことによって、そのホスピタブルな関係のなかでじぶん自身もまた変えられるような経験の場面である。ケアといういとなみは、ある効果を求めてなされるのではなく、「なんのために?」という問いが失効するところでなされる。それは、職務(=役割)においてではなく、職務を超えてだれかあるひとりの人間として現れることなしには職務そのものが遂行できないという矛盾を抱え込んだいとなみである。だから、自他を俯瞰するような第三の視点が導入され、ケアや対人支援が技術となる時、大切な何かが失われるのだと思う。この点において、ケアは「聴く」ことよりも「傍らにいつづける」ことに接近する。
「臨床」においては、じぶんが他者を選ぶのではなく、他者とそこで遇うのだということ、この偶然性のなかで生成する社会性というものを、「臨床哲学」は視野の中心に置くという。偶然性と出会いのなかに、ホスピタリティは生まれるのだ。
「方法的な直線の道は、鉄道やハイウェイのように平原を掘り起し、山や谷を突き抜けて最短距離で進む。そのあとをこんどは機関車が、自動車が、騒音や排気をまき散らしてゆく。これに対してランドネ(遊歩道)の道は、風景と折りあいをつけながら、ときに風景のその襞のなかに紛れ込んだり、社を迂回したり、別の道に通じたりして、うねうね進んでゆく。この「長く、曲がりくねった、ぎざぎざした、雑多な」ランドネの道で、ひとは寡黙なものにふれる。思いがけないものと遇う。用がないものにも目を向ける。じぶんが方法の道の上にいればぜったいにふれられないものに、ふれるのである。ホスピタリティの道は、おそらく適当に休みながら、できればいっしょに休みながら、道草もして、うねうね進むしかないのだろう。が、その過程こそが大事なのだろうとおもう。この過程をともにすること、なんの目的もなくいっしょにぶらぶら歩くこと、このぶらぶら歩きがもつ意味を、その途すがら考えつめること、そこに臨床哲学の道があるように思う。」
著者が提唱する「臨床哲学」は、哲学する者として臨床の場面にのぞむ者の経験の変容を引き起こす、ひとつの出来事としての哲学である。まず第一に、「臨床哲学」は論じること、書くこととしての哲学ではなく、「聴く」といういとなみとしての哲学を模索する。「聴く」ことを哲学するのではなくて、「聴く」ことがそのまま哲学の実践となるような哲学である。第二に、「臨床哲学」はだれかある特定の他者に向かってという単独性ないしは特異性(シンギュラリティ)の感覚を重視する。第三に、あらかじめ所有された原則の適用ではなくて、むしろそういう一般的原則が一個の事例によって揺さぶられる経験として哲学の経験をとらえる。
「臨床」とは、ひとが特定のだれかとして他のだれかに遇う場面であり、ある他者の前に身を置くことによって、そのホスピタブルな関係のなかでじぶん自身もまた変えられるような経験の場面である。ケアといういとなみは、ある効果を求めてなされるのではなく、「なんのために?」という問いが失効するところでなされる。それは、職務(=役割)においてではなく、職務を超えてだれかあるひとりの人間として現れることなしには職務そのものが遂行できないという矛盾を抱え込んだいとなみである。だから、自他を俯瞰するような第三の視点が導入され、ケアや対人支援が技術となる時、大切な何かが失われるのだと思う。この点において、ケアは「聴く」ことよりも「傍らにいつづける」ことに接近する。
「臨床」においては、じぶんが他者を選ぶのではなく、他者とそこで遇うのだということ、この偶然性のなかで生成する社会性というものを、「臨床哲学」は視野の中心に置くという。偶然性と出会いのなかに、ホスピタリティは生まれるのだ。
「方法的な直線の道は、鉄道やハイウェイのように平原を掘り起し、山や谷を突き抜けて最短距離で進む。そのあとをこんどは機関車が、自動車が、騒音や排気をまき散らしてゆく。これに対してランドネ(遊歩道)の道は、風景と折りあいをつけながら、ときに風景のその襞のなかに紛れ込んだり、社を迂回したり、別の道に通じたりして、うねうね進んでゆく。この「長く、曲がりくねった、ぎざぎざした、雑多な」ランドネの道で、ひとは寡黙なものにふれる。思いがけないものと遇う。用がないものにも目を向ける。じぶんが方法の道の上にいればぜったいにふれられないものに、ふれるのである。ホスピタリティの道は、おそらく適当に休みながら、できればいっしょに休みながら、道草もして、うねうね進むしかないのだろう。が、その過程こそが大事なのだろうとおもう。この過程をともにすること、なんの目的もなくいっしょにぶらぶら歩くこと、このぶらぶら歩きがもつ意味を、その途すがら考えつめること、そこに臨床哲学の道があるように思う。」
鷲田 清一
阪急コミュニケーションズ
売り上げランキング: 44889
阪急コミュニケーションズ
売り上げランキング: 44889
0 件のコメント:
コメントを投稿