2011年10月30日日曜日

ソーシャル・キャピタルと健康

 ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)と健康についての最近の研究動向を概観した著作。
 本書によれば、公衆衛生学におけるソーシャル・キャピタルの概念には2つの考え方がある。パットナムに代表される「コミュニタリアン」的定義では、ソーシャル・キャピタルは、相互利益のための行動や共同作業を促進するネットワーク、規範、信頼といった、社会組織、集団の特性として捉えられる。一方、ブルデューに代表される「ネットワーク」的定義では、ソーシャル・キャピタルは人々のソーシャル・ネットワークの中に埋め込まれたリソース(ソーシャル・サポート、情報チャンネル、社会的信用)であり、個人レベルの特性として捉えられている。
 2008年現在までのソーシャル・キャピタルに関する研究のほとんどはパットナムの理論に基づくものであるが、最近の質的研究のレビューによれば、パットナムのソーシャル・キャピタルの概念では、インフォーマルなネットワーク、家族のサポートなどの地域生活の重要な側面が捉えられていないという。また、これまで無視されてきたソーシャル・キャピタルの負の側面(部外者の排除、グループメンバーへの過度の要求、個人の自由の制限、規範の下方への標準化)にも目を向ける必要があるとのこと。
 その他、ソーシャル・キャピタルの測定について、数式を用いた議論があるも、初学者の私には理解困難・・・。なかなか興味深い概念だと思うのだけどね。

ソーシャル・キャピタルと健康

日本評論社
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2011年10月1日土曜日

科学は誰のものか―社会の側から問い直す


 「ガバナンス(governance)」という言葉は、ラテン語で「舵を取る」という意味のguvernareが語源だという。「統治」における舵取りの主体が政府であるのに対し、「ガバナンス」においては、民間企業や、NGO/NPO、ボランティアの個人やグループといった幅広いアクターが、「水平的」かつ「分散的」、「協働的」に社会の舵取りを行っていく。科学技術に関連する問題が社会のなかで増大、複雑化していくと、政府の力だけでは対処しきれなくなり、政府に対する不信が広がってきた。この「信頼の危機」を受け、英国の政府や科学界を中心に起きたのが、科学技術コミュニケーションの考え方やスタイルを、一般市民の科学に対する正しい理解を広めるという「統治」的なものから、双方向的な「対話」や政策決定への「参加」を重視する「ガバナンス」的なものに抜本的に転換することだった。
 科学技術と社会の影響関係は、相互形成的で相互浸透的な「共生成(co-production)」という見方で捉えることができる。ここで「相互形成」というのは、「科学技術が社会に影響し、社会を変える」というだけでなく、逆に「社会が科学技術に影響し、科学技術を変える」ということ、「相互浸透」とは、現代社会がさまざまな科学知識やテクノロジーをその要素として組み込んだ「ハイブリッド」であるように、知識やテクノロジーも、社会的な要素を組み込んだハイブリッドであるような事態を指している。私たちが抱く「価値中立的な科学」という幻想は、科学技術と社会の共生成という現実を覆い隠してしまうが、大切なのは、科学技術に社会のどんな―あるいは誰の―価値観やニーズ、利害が反映されているのかということを問うことだという。
 社会関係資本としての知識には、自然科学や工学、医学・薬学、人文・社会科学など、学術的なものだけでなく、「職業的な専門知」や、日常生活のなかの「生活知」など、多様な種類の知識が含まれる。科学技術に限らず社会問題の解決には、そのような多様な人々の多様な知識や経験、知恵が交わる「知識交流(knowledge exchange)」が不可欠であり、そこでは、当事者ならではの深い経験や知識、洞察(「素人の専門性」)も重要な役割を果たすことになる。
 「科学的な客観性は、唯一の正しい答えを保証してくれる」という期待は、今もとても根強く、このため、しばしば科学は、本来答えるべきではない問いまで「科学的な語り」に囲い込んでしまうことがある。著者は、科学に委ねてよいものとそうでないもの、科学的に考えるべきこととそうでないことをかぎ分ける嗅覚を取り戻すことが、社会のガバナンスの根本的な問題の一つであると述べているが、これは医療にとってもあてはまるだろう。「医療では答えられないもの」を「医療的な語り」に囲い込むこと、学問では解決できない問題を、非主流的学問の確立によって解決しようとするアプローチには、慎重でなければならないと思う。


科学は誰のものか―社会の側から問い直す (生活人新書 328)
平川 秀幸
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